秋の一日歴史と文化を訪ねて≪岩槻≫

11月16日(火) 郷土史友の会11月例会 「岩槻散策」   

昨夜来の雨がうそのよう、すっきりと晴れ渡った晴天の下、私ども総勢11名を、東武野田線の岩槻駅前で、ボランテイアガイド氏と10時を告げるオルゴールの音色と、からくり人形の舞いが迎えてくれた。

岩槻藩城下町、日光御成道の宿場町、そして人形の町として栄えた岩槻。16世紀前半太田道灌が築城したといわれる岩槻城、その後北条氏に支配され、豊臣秀吉による北条氏の滅亡とともに落城、そして徳川家康による関東支配からは、徳川譜代大名(高力、阿部、大岡)による統治で幕末まで続くことになる。

岩槻が人形の町となった経緯には諸説あるが、「日光東照宮造営に来た京都・伏見の人形師が、当地の気候風土、人形の頭つくりに欠かせない桐粉の産地、良質の水などに着目して、この地に創業した」とは、岩槻の代表的人形店「東玉」が運営する人形博物館に説明されていた。

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 駅前のからくり時計            芳林寺           

 

 

 

                                                                                                                                                                    

ガイド氏の案内で、太田道灌一族の菩提寺 芳林寺、昭和5年建築岩槻警察署旧庁舎の郷土資料館、儒学者 児玉南柯の私塾であったのを岩槻藩が藩校とした遷喬館、時の鐘、城址公園、公園内にあるレストランで昼食(B級グルメコンテストで優勝したという「豆腐ラーメン」がある)。岩槻城城郭内に総鎮守として建立された久伊豆神社、岩槻城主 高力清長や児玉南柯の墓がある浄安寺と巡った。

「時の鐘」は寛文11年(1671年)時の城主 阿部正春が創建し、その後改鋳などしたが、美しい音色で四方に時を告げた。「岩槻にすぎたるもの二つあり、児玉南柯と時の鐘」といわれたという。傍らには明治になって九条公爵が記念植樹したといわれる大銀杏が聳えている。

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    時の鐘                       遷喬館

「遷喬館」は藩校時代のものがそのまま保存されており、6歳から18歳までの子弟40人が儒教はじめ武道も含めた練磨に勤しみ、優れた卒業生は江戸 昌平黌への藩費遊学の制度もあったという。

「岩槻城」は、現在その大半が残っていないが、「新曲輪」といわれる練兵場などに使われた場所が城址公園として保存されており、城門の一部、空堀の一部が復元されている。空堀の中には、「堀障子」という敵の移動を妨げる障害物が残っており、これは北条氏の城(小田原城、山中城)からも見つかっており、北条氏特有の築城技術を継承したものとみられている。

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     浄安寺                       城址公園

約5時間ほどの散策であったが、この町の歴史にほんの少しだけ直接触れた気分になり、快い疲れを感じながら岩槻駅をあとにした。

末筆ですが、資料提供頂いた さいたま市岩槻区役所コミュニティー課、時間延長にも関わらず丁寧な説明をされた 岩槻観光ボランティア 岩崎さんにお礼と感謝申し上げます。

 

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